2010年6月28日月曜日

*到津の森*



4月から住んでいる新居から歩いて5分くらいの所に
到津(いとうづ)の森という森があり、その中に動物園があります。
朝も夜も、時々彼らのなき声が私の部屋にまで響く事があり、
どんな子たちがいるのかしら、と想像していました。

先日、ようやく足を運んでみたところ、
予想を遥かに超えたたくさんの動物君たちがいました。
みんな檻の中にいるのは本当にかわいそうなことだし、
大きな動物たちは走り回れなくてせつないのですが、
そんな彼らに月に一度くらいは会いにいって、
あいさつをしてこようかと思います。

そして、檻の中でもがんばって生きている
彼らの分までがんばろう、と思ったのでした。

それにしても、昼寝中のあらいぐまくんの右手、
思わずさわりたくなりません?

2010年6月20日日曜日

*父の笑顔*

(写真は左から、母、おいっこのジミー、父)
母と祖母について書いてきましたので、
「父の日」にちなんで、今回はお父さんの特集です。

私の父は田坂能彦とかいて(たさか よしひこ)と言います。
父の特記すべきところの第一は次のようなことです。

「いつも楽しそう!!!」+「誰とでも友達になれる」です。
。。。私の30数年間の人生の中で、実は、父が怒った所と
泣いている所は一度も見た事がありません。

とはいっても、悲しみや苦しみがなかったわけではないのですが、
父はどんな苦難があっても、それを周りに出さないで
未来に希望をもって、前向きに乗り越えられる人なのです。
子どもたちに心配かけないように知らない所で泣いていた事も
あるのかもしれませんが、とにかくいつも平穏無事、といった様子。
嵐がきてもへっちゃらな、海の底みたいな変わらぬ安定感を
常に感じさせてくれます。

そのような父なので、おじいさんになった今も
現役でバリバリ働きつつ、お友達ともよく遊び、
よく飲んで食べ、健康そのもの。
生まれ育った教会の私の友人たちにも「よっちゃん」と
呼ばれ、若い世代からも仲良くしてもらっているのです。

実は父と母は小学校一年生からの同級生。
お互い「よっちゃん」、「さっこちゃん」と
呼び合う間柄。未だにうちのママは「よっちゃん」と
呼んでいます。最近も行われている小学校の同窓会にも
一緒に出席できるところがうらやましい限りです。

そんな親しみやすい父ですが、
小さい頃からやっているフルートを
今でも教会その他で演奏し、教会では
30年にわたる聖歌隊の指揮者として活躍中。
今回の「父の日」では、下記のチラシのように、
近隣の教会で兄がメッセージ、
父がフルートを奏でる「くつろきコンサート」と
「父の日礼拝」に招かれているようです。

ストレスをためない人ナンバーワンな父から学び、
また、私も上手にストレスマネージメントをしつつ、
お父さんのように、家族やお友達、周りの人々を大切に、
仕事に精を出したいと思います☆

そして、「お父さん、いつもありがとう!!!」

2010年6月13日日曜日

与謝野晶子の物まねー田坂ゆたか編

こちら↓のURLからまずは動画をご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=HYJAhS2MvGA


89歳になるうちのおばあちゃん、
「田坂ゆたか」は、石井柏亭の4女であり、現役の洋画家。
と言われても今時の若者たちには何のことやらなので、
ちょっと説明をすると、石井柏亭は日本における西洋画家のパイオニアであり、
二科会や一水会などを創った人でもある。

与謝野晶子や有島生馬たちとともに、西村伊作が創った芸術学校「文化学院」の
創設にも関わり、教鞭もとる。当時男の子は丸刈り、女の子はおかっぱ頭の時代、
自由な私服での通学で、生徒たちは大正時代をおしゃれに過ごしていたようだ。
そんな関係で、うちのおばあちゃんも文化学院で学び、
与謝野晶子からも直接、詩を習う機会もあったというわけです。
現在、おばあちゃんの同窓会は生存者5名、その中には谷桃子バレエ団の創始者
谷桃子さんもいたりと、なかなかハイカラなグループらしいです。

というわけで、今回は待ちに待ったこの企画、ゆたかさんお得意の
「与謝野晶子」先生の物まね、をご披露させていただきました。


「似てる〜似てる〜!!」など、ご覧になった方はコメントよろしく☆
つっこみもよろしく。


ちなみに石井柏亭の説明は下記の通りです。ウィキより。+++++++++++++

石井 柏亭(いしい はくてい、1882年3月28日 - 1958年12月29日)は日本の洋画家、美術評論家。
1882年(明治15年)東京生、本名石井満吉。父は日本画家の石井鼎湖で、弟は彫刻家の石井鶴三である。1897年浅井忠に入門し、1902年に結成された太平洋画会に参加。1904年東京美術学校に入学するが、眼病のため中退。雑誌『明星』に挿絵を描いたり、また詩作を発表した。1907年、美術雑誌『方寸』を創刊(ドイツの「ユーゲント」等を念頭に置いたといわれる)。1908年木下杢太郎北原白秋ら文学者とパンの会を結成した。
1910年12月、私費でヨーロッパに外遊、1912年に帰国。
1914年(大正3年)には有島生馬らとともに二科会を結成した。
22年東京帝国大学工学部講師。
西村伊作が創立した文化学院に招かれて教壇に立った(後に美術部長を務めた)。
1928年フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受章、29年『中央美術』を創刊、
35年帝国美術院会員となり二科会を辞す。
36年一水会を結成、37年帝国芸術院会員、49年日展運営会理事、
没後正四位勲二等旭日重光章受章。